2013年5月27日月曜日

名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その17



名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その16 、 のつづきです。


高地を流れる愛知用水が谷をわたる盛土がなされコンクリで固められているその下をくぐるトンネルを南にくぐったところからです。






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トンネルを南に進んだら、すぐに右折し (西へ) 進みます。




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トンネルをでて右 (西) を見ると、こんな感じです↓



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山の斜面や、大きな川の堤防のように見えますが、標高の高いところを流れている愛知用水が、山の谷(釜ヶ谷)を越えるために作られた盛土です。

この愛知用水にそって西に向かって歩きます。

若干登り坂になっているのは、武路山の南側の山裾にあたる場所だからです。

この武路山の南側の斜面には、七ツ塚があります。

七ツ塚に向かって進みます。




しばらく西に向かって愛知用水沿いを歩いていると、左手に公園が見えてきます。




この公園に沿って、左折します。

本当は、「いくさのみち」 に沿って歩くには、ここを直進したあと左折だったんですが、↓




そのルートは遠回りだったので、近道を行ってしまい、写真もありません。
↑この看板とおりだと、間違いなので、後日写真を撮りなおして、ブログを直しておきます・・・すいません。

まだ未整備なのか、住宅街だから難しいのか、いくさのみちには矢印も看板もなにもないんですよね。

公園沿いに左折し、公園を東に見ながら南に進んで行くと、




最初に右折できる丁字路がすぐですので、ここを右折します。



        ↑
この路地を40mくらい西に進みます。

すると、住宅と住宅に挟まれた七つ塚の入口に到着です。






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名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その17 、 終。

その18につづく。




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2013年5月18日土曜日

桶狭間古戦場まつりについて


桶狭間古戦場まつりが、いよいよ明日に迫りました。


パンフレットはこちらです。
   ↓
(表) http://okewanko.com/uploads/fckeditor/uid000001_20130420120930790c59dd.jpg

(裏) http://okewanko.com/uploads/fckeditor/uid000001_201304201224451a12951c.jpg

サイトはこちらです。
   ↓
http://okehazama.net/modules/osirase/index.php?page=article&storyid=199


古戦場まつりは、桶狭間地区の地元住民限定のお祭りではありません。

オープンに開かれたお祭りです。

その証拠に、パンフレットの裏を見ると、戦跡ツアーがあります。

ガイドさんが無料で古戦場を案内してくれます。

日本中から信長ファンがわざわざ泊まりがけで名古屋に来て、桶狭間にやって来ます。

そんなに有名な催しものでもありませんので、県外からの来訪者の方はまだそんなに人数は多くないですが、それでもいらっしゃいます。

行く価値は確かにあると断言できます。


古戦場まつりの動画もたくさんアップされていますが、

[動画]

桶狭間の戦い450年の盛大な年の動画が多いので、ちょっと今年とは様子が違いますけれども・・・・

450周年限定の時に来た、河村市長と名古屋城おもてなし武将隊は今年は来ません。
まあ、本当の歴史ファンは市長にも武将隊にも興味はないとは思いますが・・

http://youtu.be/iKl0HGDiQCQ










   ↑
これは桶狭間古戦場まつりとは関係ありませんが・・・・

ツアーに参加するのが遅れても、七ツ塚、セナ藪だけでも見ておく価値はあります。

七ツ塚
http://okehazama.net/modules/sisekimeguri/03_nanatuduka.html

セナ藪
http://okehazama.net/modules/sisekimeguri/06_senaujitoshi.html

今川義元の首実検が行われたという伝承の残る長福寺と、日没後に長福寺の前にある大池を取り囲む、桶狭間の戦死者の数(およそ3000)だけ灯されるろうそくの炎もとてもきれいです。

長福寺
http://okehazama.net/modules/sisekimeguri/07_cyoufukuji.html
大池
http://okehazama.net/uploads/fckeditor/2010_05_16/uid000001_201005231646453a379a18.jpg














ゲームから桶狭間にはまって古戦場まつりに来たという若者に会ったこともあります。

漫画、「センゴク」 の作者が桶狭間に特化した、「桶狭間戦記」 を書いていて、それを読んで古戦場まつりに来た、という若者にも会いました。
   
http://kc.kodansha.co.jp/content/top.php/1000004022


漫画やゲームで桶狭間がどんどん有名になっていくのはうれしい現象です。

その中でも、地元の長老たちの貴重なお話を聞ける桶狭間古戦場まつりは、その基本中の基本を深く知る上では大変貴重な機会です。

年に一度のこの素敵な機会をお見逃しなく!




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2013年5月17日金曜日

桶狭間古戦場公園について


現在、

「名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう」

というシリーズでブログを書いている途中なのですが、間もなく、「桶狭間古戦場まつり」 が開催されることもありますので、一時シリーズを中断して、桶狭間古戦場まつりのメイン会場でもある、桶狭間古戦場公園と、古戦場まつりについて、先にご紹介させていただこうかと思います。



         ↑
桶狭間古戦場公園の南端に立てられている名古屋市教育委員会の立て看板です。


まず、桶狭間古戦場まつりですが、平成25(2013)年の今年は、5月19日の日曜日に開催されます。

http://okewanko.com/uploads/fckeditor/uid000001_201304201224451a12951c.jpg

http://okehazama.net/modules/osirase/index.php?page=article&storyid=199

メインとなる桶狭間古戦場公園の場所は、Googleマップの航空写真で見ると、



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こんな感じの南北に長い公園で、公園には日展にも出品している芸術家の手による織田信長公と今川義元公の銅像があり、

http://goo.gl/maps/6WeoH

公園の周囲にはストリートビューのデータもあります。



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ここで、地元の方によるさまざまな催し物が行われますが、本来のメインは桶狭間の戦いの慰霊祭です。
http://okehazama.net/modules/sisekimeguri/04_okehazamakosenjyoukouen.html

   ↑
このサイトにありますが、「駿公墓碣」 です。

この駿公墓碣こそが、この緑区桶狭間町の水田の真ん中に、400年の永きにわたって、盛土の塚の中に埋められていたのです。

この駿公墓碣こそがこの公園が作られた最大の理由であり、この駿公墓碣こそが、今川義元公の戦死の地としての証拠の、最大の証拠なのではないかと思われます。

この駿公墓碣を前に、まず慰霊祭が行われます。

これが桶狭間古戦場まつりで一番最初に行われる大切な行事です。


ほんものの歴史好きの方は、この公園に何のために行くべきなのかといえば、この駿公墓碣に参拝するためのみである、と言いきってしまっても、それは過言にはならないでしょう。


その駿公墓碣の南側に、銅像が建てられ、大変見栄えのする公園になりました。




http://okewanko.com/uploads/fckeditor/uid000001_201304201224451a12951c.jpg

にある、長福寺での歴史公演会を行う郷土史家の梶野渡さんの動画もアップされていますので、ご覧になってみてはいかがでしょうか。
           ↓
http://youtu.be/YvfIqp73eWc

実際の梶野さんはこの動画よりももっと早口ではきはきとお話になります。

とてもエネルギッシュで、とてつもない知識をお持ちです。




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2013年5月16日木曜日

名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その16


名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その15 、のつづきです。




武路山の東端の谷にある道、釜ヶ谷、と呼ばれている谷を進みます。

言い忘れていましたが、この道路には、ストリートビューのデータがあります。



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このストリートビューのデータを使って、周りの地形を見渡せると思います。

この道路の西側が名古屋市の武路山、東側が桃花学園大学の敷地で豊明市です。

この道路が名古屋市と豊明市の境界線ではありますが、桶狭間の合戦そのものは、名古屋市と豊明市をまたいで広範に及んでいます。

その証拠が、武路山の南斜面に存在する七ツ塚と、豊明市に存在する戦人塚です。

その証拠の一つ、七ツ塚に向かいます。

釜ヶ谷の道路を南方に進んでいくと、山にトンネルが掘られたようなところに出ます。





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このトンネルの上には川が流れています。

この川のように見えるのは、昭和の高度成長期に世界銀行から融資を受けて作られた愛知用水です。

桶狭間の古戦場跡を、昭和に作られた用水路が、木曽川から取水された用水路が通っています。

山のように見えているのは、用水を高い位置から知多半島の先端まで運ぶために、高度を保つ必要があり、わざわざ盛土をしてコンクリで固めて、こんな高いところに水を流しています。

この付近の愛知用水よりも高度の低いところに住んでいる桶狭間の住民の方は、大地震が起きるとこの愛知用水のコンクリがひび割れて、桶狭間が浸水するんじゃないかなどと噂されていますが、そんな大地震の起きるときは上流の用水路もひび割れて漏水しますから、何もここだけが被害にあうとかいう事はないと思いますよ(笑)

さて、このトンネルをくぐって、




愛知用水の下をくぐって、南に進みます。

トンネルを出たら、





すぐに右折して、西に向かって進んでください。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




突然ですがここでお知らせです。

次の日曜日の5月19日、この地域で桶狭間古戦場まつりが開催されます。

http://okehazama.net/modules/osirase/index.php?page=article&storyid=199

毎年この時期、5月の第3日曜日に開催されます。

桶狭間古戦場保存会の方々が、ボランティアでこの付近の史跡を案内してくれます。

桶狭間好きの方は、この機会を逃さず、このお祭りに参加なされることをお勧めします。

お祭りの詳細につきましては、こちらのビラのJPGをご覧ください。
      ↓
http://okewanko.com/uploads/fckeditor/uid000001_201304201224451a12951c.jpg


歴史好きであれば、

・古戦場公園を10時(受付は30分前の9時30分)、と、12時(受付は30分前の11時30分)に開催される史跡めぐりツアー
・長福寺本堂で15時から行われる歴史講演会

の二つは必見です。



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2013年5月14日火曜日

名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その15


名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その14 、のつづきです。


武路山の東の斜面を下って、谷に下りてきます。




桃花学園大学&名古屋女子短大の敷地に沿ったこの道路を南方に進みます。

この道路を挟んで、武路山側の西側が名古屋市、大学側の敷地が豊明市です。






この道路は名古屋市と豊明市の境界で、この写真の左側が豊明市、右側が名古屋市です。

この道路を南に進んでいくと、




大学の駐車場のフェンスのところに、




有松桶狭間観光新興協議会の掲示版が登場します。

この掲示版には、




「前方の斜面を信長軍が駆け上がったと言われており」

と書いてあるんですが、これも実は想像で、有松桶狭間観光振興協議会による一つの説です。

直接的な証拠の文献や痕跡が残されているわけではありません。

しかしこの説も100%否定するものでも肯定するものでもありません。

この説を否定する証拠資料も存在するわけではないからです。
前方の斜面とは、




この林ののある斜面の事で、この山が、さらに南にある、地元の人が最近「おけはざま山」と呼ぶようになった山と地続きになっていたことから、今川義元本隊の右翼部隊がここに陣取っていた、とする有松桶狭間観光振興協議会の見解も、一つの説として楽しむ心が大切です。

「これしかない」

と思っては桶狭間が楽しめません。

この付近を歩いて、さまざまな推理を巡らせることが、桶狭間の最高の楽しみです。

誰しもが桶狭間の合戦の研究者になれる、それが桶狭間の戦いの魅力です。

そのようなブログも多数ありますよね。

そのような魅力を楽しみましょう。


ところで、この駐車場は昔、農業用のため池でした。

合戦当時には存在しない池だったと思われます。

このような山間にため池を作ってまで水田耕作をしなければならないほど、当時は人口がいませんでしたので。



名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その15 、終。


その16につづく。




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2013年5月10日金曜日

名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その14


名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その13 、 のつづきです。


桶狭間の戦いの主戦場ひとつ、武路山を登って行きます。

武路山と呼ばれている名古屋市緑区武路町は、歴史を知らない人から見れば、単なる急坂の多い山または丘の住宅地にしか見えないでしょう。

本当にただの住宅地ですからね・・

今から約450年前に、この山の南側の斜面に7箇所の大きな穴を掘って、千人以上の戦死者が埋葬され塚が建てられたたという事実を知らずに住んでいる人も多いことでしょう。

そういう意味では、死者の山、と言う事もできるでしょう。

それが武路山です。




1977年のこの付近の航空写真が国土地理院のサイトで公開されています。

http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=848901&isDetail=false

この頃は武路山は東半分は森のままですし、西側も山肌を削って宅地造成の真っ最中です。

深い森の中に七つ塚がひっそりとたたずんでいる様子は、この付近の村人にとっては畏れるべき場所だったに違いありません。

今はそんな事は微塵も感じさせられないような、みごとな住宅地になってしまっています。

この森の中の細い山道を逃げまどう今川兵と、それを追撃する織田の兵たち。

あるいは山道は渋滞し、森の中を逃げまどう今川兵、それを追う織田の武将たち。

そんな光景を想像するのはちょっと難しいような、綺麗で清潔な住宅地です。




ちなみに、国土地理院のサイトには、1950年の航空写真も公開されています。

http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=72472&isDetail=true

この写真の状態のときにこの付近を歩いてみたかったですね。

田んぼと畑だらけのこの状態は、450年前よりも開墾が進んだ状態だとは思いますが、それでも今よりはずっと当時の地形をとどめていたに違いありません。

しかしこの頃の地形の状態の頃からずっとここで生まれ育ってきた方々が、桶狭間古戦場保存会にいらっしゃいます。


さて、武路山の西側の坂道を上っているうちに、道が平坦な道路に変わってきます。




自然にできた山がこんなに平坦なわけもなく、宅地造成時にそうとう削られたのだなと思います。

しばらく行くと、武路山で最も標高の高いあたりに近づいてきました。

地図でいうと、

http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=136.97239401843&latitude=35.06011069819
  ↑
この十字路なんですが、ここから北を向いて武路山の頂上に向けて撮影すると、




こんな感じなんですが、この頂上も有松神社のある高根山と同じくらいの標高があります。

http://wisteriahill.sakura.ne.jp/GMAP/GMAP_ALTITUDE/
 ↑
で調べてみたところ、最大標高で47mありました。

この写真に写っているアパートの駐車場に、1年半くらい前に、どういうわけかGoogleのストリートビューの撮影用の車がいつも駐車してありました。

「ちゃんと仕事してるのかな?」

「単身赴任なのか長期出張なのか、どっちなのかな?」

「やはりここが桶狭間合戦の地と知って、ここを中心にデータ収集しているのかな?」

などと思いながら、この付近のストリートビューが充実する日を待ち望んでいたのですが、なぜかこの付近のデータがあんまりありません。

どういう基準でデータを収集しているのかわかりませんが、1年くらい前にその撮影用の車もなくなりましたので、また長期出張でどこかに移動していったのでしょう。

さて、この十字路をすぎてさらに東に進んでいくと、武路山の東の斜面にさしかかります。




手前の谷を挟んで正面にある山に桃花学園大&名古屋短大が見えます。

http://www.ohkagakuen-u.ac.jp/

http://www.nagoyacollege.ac.jp/

あとで詳しく解説させていただきたいと思いますが、桶狭間観光新興協議会では、この山に今川本隊の右翼が布陣していた、としています。

しかしこの説は推測で、1次資料が存在するわけでもありません。

100%肯定するものではありませんが、かといって、100%否定するものでもありません。

100%否定できる1次資料も存在しないからです。

これが桶狭間の合戦の謎であり、議論が百出するところです。




高根山のところで、今川本隊が高根山に布陣している黒澤達矢さんの図を紹介しましたが、布陣箇所の説が桶狭間古戦場保存会の説と異なっていますよね。

これは桶狭間論を語る上で、常に存在するもので、この説の違いを楽しむのが桶狭間の合戦のだいご味です。




双方の説も100%肯定もできず、100%否定もできません。

なぜならば、布陣に関する直接的な証拠が存在しないからです。


この東側にすすむ下り坂は、桃花学園大の敷地につきあたって丁字路に出ます。

地図でいうと、


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この位置です。

この丁字路を南南西に向かって右折します。





名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その14 、 終。



その15につづく




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2013年5月9日木曜日

名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その13


名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その12 、 のつづきです。


高根山を南東に進んで下りていくと、二車線の道路にたどり着きました。





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この2車線の道路は、高根山と武路の山の間の谷底に作られた道路です。



                 ↑
この南北に走る二車線の道路を挟んで、この坂を登っていくのですが、この坂は地元の方々が、「武路山」と呼んでいる山です。

この上にある写真を撮影した場所から振り返って、いままで下ってきた高根山の坂を西方向へ撮影してみると、




こんな感じです。

この2車線の道路が谷底を走っているということがお分かりいただけると思います。


http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=136.96990492846&latitude=35.060901082196


標高の出ている地図を見ての通りです。

名古屋市緑区には、これと同じような山と谷がたくさんあります。

有松中学校の横の坂道も谷です。

だから、桶狭間に関する古文書を読んでも、「谷を進み」と記述してあっても、どこの谷かのかを、完全に正確に特定するのは、よほど正確な地名が記述されていない限りはほとんど不可能だと思います。

桶狭間の戦で布陣や進軍ルートで、さまざまな説が百出するのは、名古屋市緑区がこういう地形だからです。

布陣箇所や進軍ルートを特定するのは非常に難しいと言えますが、これだ!という証拠は残っています。

それが七ツ塚であったり、駿公墓碣であったり、戦人塚であったり、首をとられ白骨化しうずもれていた御遺骸であったりするわけです。


有松中学校のあたりから有松神社のある高根山、そして南に下って武路に向かって進んできましたが、これらは全部かつて戦場であったと見るべきで、確かに450年前にこの地において、血で血を洗う壮絶ないくさがおこなわれた死の山、死の谷です。

住宅がびっしりと建ち並んでいますから、そのあたりの感覚が麻痺しやすいですが、ここが死者の山、死者の谷であることを常に念頭におき、その慰霊にも思いを馳せながら、この地を巡ってみていただきたいと思います。


それではこの二車線の道路を、車に注意して横断し、東に進みます。

右(南)を見て、




左(北)を見て




車に注意してこの道路を横断し、東に進み、




ファミリーマートの横を通って、この坂を登ります。

このファミリーマートの正式名称は、「ファミリーマート武路町店」 です。

この武路山を登っていきます。




武路山は、高根山ほどの急こう配ではないにしても、なかなかキツイ坂です。

振り返って見てみると、




1ブロック進んだだけで、目線が3階建ての建物やファミリーマートの看板くらいになっています。



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地図で見ると、ファミリーマートから東南東へ40mほど進んだだけですが、目線が3階建てになっています。
先ほどの2車線の道路を挟んで、高根山側の幕山の住宅が、手前の3階建ての建物よりもはるかに上に住宅が建ち並んでいるのが見えます。


武路山には南側の斜面に七ツ塚があります。

50m間隔に七か所の穴を掘り、桶狭間の合戦における戦死者が葬られた塚(墓)です。

いま登っている坂は武路山の西側の斜面です。




住宅街の住所を示す金属製のプレートにも、「緑区 武路町」 と書かれています。

世の中に多くの桶狭間に関する書物が出ていますが、今通ってきた高根山や武路山について詳しく書かれた書物はほとんど存在しません。

遺骨が出てくる高根山から幕山近辺、大量の遺骨が埋葬されていた武路山について、日本中の桶狭間に関する書物が、高根山や幕山、武路山に触れていないというのは一体どういう事なのでしょうか?

一方、名古屋市内の図書館を巡ると、この高根山や武路山を巡っての郷土歴史家の熱い桶狭間論が展開されているものをよく見かけます。

高根山と武路山の重要性は、地理感覚のある地元の人間にしかわからないのです。

ましてや複雑怪奇といえるこの緑区の山また山、谷また谷の地形を、短期間で把握することはほぼ不可能です。

だから有名なあの教授ですらおかしな事を言うし、自称桶狭間研究家で、なかなかすごい肩書の研究員の書物でもトンチンカンなことが書いてあったりします。

桶狭間の合戦を理解するのは非常に難しいのです。

まず地形を理解するだけでも難しいからです。

そういう意味でも、桶狭間の戦いというのは、非常に奥が深くておもしろい魅力があります。



名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その13 、終。


その14へつづく




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