2013年5月10日金曜日

名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その14


名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その13 、 のつづきです。


桶狭間の戦いの主戦場ひとつ、武路山を登って行きます。

武路山と呼ばれている名古屋市緑区武路町は、歴史を知らない人から見れば、単なる急坂の多い山または丘の住宅地にしか見えないでしょう。

本当にただの住宅地ですからね・・

今から約450年前に、この山の南側の斜面に7箇所の大きな穴を掘って、千人以上の戦死者が埋葬され塚が建てられたたという事実を知らずに住んでいる人も多いことでしょう。

そういう意味では、死者の山、と言う事もできるでしょう。

それが武路山です。




1977年のこの付近の航空写真が国土地理院のサイトで公開されています。

http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=848901&isDetail=false

この頃は武路山は東半分は森のままですし、西側も山肌を削って宅地造成の真っ最中です。

深い森の中に七つ塚がひっそりとたたずんでいる様子は、この付近の村人にとっては畏れるべき場所だったに違いありません。

今はそんな事は微塵も感じさせられないような、みごとな住宅地になってしまっています。

この森の中の細い山道を逃げまどう今川兵と、それを追撃する織田の兵たち。

あるいは山道は渋滞し、森の中を逃げまどう今川兵、それを追う織田の武将たち。

そんな光景を想像するのはちょっと難しいような、綺麗で清潔な住宅地です。




ちなみに、国土地理院のサイトには、1950年の航空写真も公開されています。

http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=72472&isDetail=true

この写真の状態のときにこの付近を歩いてみたかったですね。

田んぼと畑だらけのこの状態は、450年前よりも開墾が進んだ状態だとは思いますが、それでも今よりはずっと当時の地形をとどめていたに違いありません。

しかしこの頃の地形の状態の頃からずっとここで生まれ育ってきた方々が、桶狭間古戦場保存会にいらっしゃいます。


さて、武路山の西側の坂道を上っているうちに、道が平坦な道路に変わってきます。




自然にできた山がこんなに平坦なわけもなく、宅地造成時にそうとう削られたのだなと思います。

しばらく行くと、武路山で最も標高の高いあたりに近づいてきました。

地図でいうと、

http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=136.97239401843&latitude=35.06011069819
  ↑
この十字路なんですが、ここから北を向いて武路山の頂上に向けて撮影すると、




こんな感じなんですが、この頂上も有松神社のある高根山と同じくらいの標高があります。

http://wisteriahill.sakura.ne.jp/GMAP/GMAP_ALTITUDE/
 ↑
で調べてみたところ、最大標高で47mありました。

この写真に写っているアパートの駐車場に、1年半くらい前に、どういうわけかGoogleのストリートビューの撮影用の車がいつも駐車してありました。

「ちゃんと仕事してるのかな?」

「単身赴任なのか長期出張なのか、どっちなのかな?」

「やはりここが桶狭間合戦の地と知って、ここを中心にデータ収集しているのかな?」

などと思いながら、この付近のストリートビューが充実する日を待ち望んでいたのですが、なぜかこの付近のデータがあんまりありません。

どういう基準でデータを収集しているのかわかりませんが、1年くらい前にその撮影用の車もなくなりましたので、また長期出張でどこかに移動していったのでしょう。

さて、この十字路をすぎてさらに東に進んでいくと、武路山の東の斜面にさしかかります。




手前の谷を挟んで正面にある山に桃花学園大&名古屋短大が見えます。

http://www.ohkagakuen-u.ac.jp/

http://www.nagoyacollege.ac.jp/

あとで詳しく解説させていただきたいと思いますが、桶狭間観光新興協議会では、この山に今川本隊の右翼が布陣していた、としています。

しかしこの説は推測で、1次資料が存在するわけでもありません。

100%肯定するものではありませんが、かといって、100%否定するものでもありません。

100%否定できる1次資料も存在しないからです。

これが桶狭間の合戦の謎であり、議論が百出するところです。




高根山のところで、今川本隊が高根山に布陣している黒澤達矢さんの図を紹介しましたが、布陣箇所の説が桶狭間古戦場保存会の説と異なっていますよね。

これは桶狭間論を語る上で、常に存在するもので、この説の違いを楽しむのが桶狭間の合戦のだいご味です。




双方の説も100%肯定もできず、100%否定もできません。

なぜならば、布陣に関する直接的な証拠が存在しないからです。


この東側にすすむ下り坂は、桃花学園大の敷地につきあたって丁字路に出ます。

地図でいうと、


大きな地図で見る


この位置です。

この丁字路を南南西に向かって右折します。





名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その14 、 終。



その15につづく




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