2013年5月8日水曜日
名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その12
名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その11 、 のつづきです。
高根山の頂上、有松神社を出て南へ向かいます。
道の向こうに、幕山と巻山に建ちならぶ住宅が見えます。(画像をクリックすると拡大します)
この道路をまっすぐに進んで行きます。
するとまたしてもコンクリートに丸いディンプル(?)の入った道路になります。
この丸い模様は滑り止めで、急こう配の坂に作られますが、この坂も急な坂であることがわかります。
http://www.dohkenkyo.net/pavement/meisyo/sinkuko.html
ゴムの輪を付けてこの模様をつけるのですね。
この急坂を下っていくと、
丁字路に突き当りますので、ここを左折(東方へ進む)します。
Googleマップで見ると、
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正確に言うと、丁字路を左折すると、 方角は南東ですね。
丁字路を左折し、南東に進みます。
左折側を撮影すると、このような感じです。
東南の曲がり角の土地で、工事が行われていました。
何やら鉄筋の建物が建造されています。
この高根山の土質を見ていただいてもわかるように、良質そうな土です。
ここが落葉の雑木林だったことを表している土だと思います。
そして、この工事現場の土に注目したのは、
もうひとつ深い理由がありまして、それは、
この付近の住民の方に聞いた話なのですが、このあたりで住宅開発をするために、すこし地面を掘ると、いまだに桶狭間の合戦のときの、戦死者のご遺骨が発見されるのだそうです。
しかも戦国時代の合戦の戦死者のご遺骨なので、首のない白骨として出土するのだそうです。
これはこの付近が桶狭間の合戦が行われた動かぬ証拠です。
合戦が行われた後は、桶狭間村の村人が戦死者の遺骸を集めて武路山の七ツ塚に埋葬しましたが、その時に見つからなかった遺骸が、長い年月を経て山土にうずもれ、現代の宅地開発がなされるまで見つけられることなく至った、ということでしょう。
ということは、山の中に逃げ込んだ今川兵、その山奥の茂みに追い込んだ尾張兵、戦いの末に首をとり、首から下の死体は山の中の人目につかない藪の中か、人の入らないような急坂の谷に討ち捨てた、というところでしょうか。
だから、このように山の土が削られたところをみると、つい、
「桶狭間の戦いの戦死者の遺骸の白骨がないだろうか?」
などと思って、探してしまいます・・罰あたりな話ですが・・
御遺骸でなくとも、たとえば矢じりとか、槍とか、槍の穂先だけとか、刀の柄だけでもいいから、床几でも、旗指物の棒でもいいから、こういう山の斜面の削られた表土から、ちょっとでも出てないかな・・などと目をこらして探してみたのですが、何もありませんでした(笑)
この撮影した日は休日で、工事現場には人がおらず、工事中に何か土中から見つからなかったか尋ねてみたかったのですが、それもできなかったです、残念。
勝手に入って何箇所か掘ってみようかなと思いましたが、やっぱ私有地なのでやめときました。
先ほどの丁字路を左折して南東へ進むと、更に坂を下ります。
↑
坂を下りて行って、振り返って撮った写真です。
高根山をさらにぐんぐん下りていきます。
坂を降りながら、さっき行った高根山の頂上にある有松神社方面の崖の部分が見えました。
崖なので家が建てられず、こうやって雑木林が残っている箇所があるというわけですね。
この写真を見ても、高根山がいかに急な崖に囲まれた山であるかがわかると思います。
さらに坂を下って行きます。
どんどん標高がさがっていくので、周りの山が目立ってきます。
武路の山に建ち並ぶ住宅が、あんな上の方に見えます。
ちょっと歩くとすぐに高い山があり、深い谷がある、これが桶狭間の特徴であり、名古屋市緑区の特徴でもあります。
中央に黄線のひかれた、二車線の道路に出ました。
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名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その12 、 終。
その13につづく
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