名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その12 、 のつづきです。
高根山を南東に進んで下りていくと、二車線の道路にたどり着きました。
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この2車線の道路は、高根山と武路の山の間の谷底に作られた道路です。
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この南北に走る二車線の道路を挟んで、この坂を登っていくのですが、この坂は地元の方々が、「武路山」と呼んでいる山です。
この上にある写真を撮影した場所から振り返って、いままで下ってきた高根山の坂を西方向へ撮影してみると、
こんな感じです。
この2車線の道路が谷底を走っているということがお分かりいただけると思います。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=136.96990492846&latitude=35.060901082196
標高の出ている地図を見ての通りです。
名古屋市緑区には、これと同じような山と谷がたくさんあります。
有松中学校の横の坂道も谷です。
だから、桶狭間に関する古文書を読んでも、「谷を進み」と記述してあっても、どこの谷かのかを、完全に正確に特定するのは、よほど正確な地名が記述されていない限りはほとんど不可能だと思います。
桶狭間の戦で布陣や進軍ルートで、さまざまな説が百出するのは、名古屋市緑区がこういう地形だからです。
布陣箇所や進軍ルートを特定するのは非常に難しいと言えますが、これだ!という証拠は残っています。
それが七ツ塚であったり、駿公墓碣であったり、戦人塚であったり、首をとられ白骨化しうずもれていた御遺骸であったりするわけです。
有松中学校のあたりから有松神社のある高根山、そして南に下って武路に向かって進んできましたが、これらは全部かつて戦場であったと見るべきで、確かに450年前にこの地において、血で血を洗う壮絶ないくさがおこなわれた死の山、死の谷です。
住宅がびっしりと建ち並んでいますから、そのあたりの感覚が麻痺しやすいですが、ここが死者の山、死者の谷であることを常に念頭におき、その慰霊にも思いを馳せながら、この地を巡ってみていただきたいと思います。
それではこの二車線の道路を、車に注意して横断し、東に進みます。
右(南)を見て、
左(北)を見て
車に注意してこの道路を横断し、東に進み、
ファミリーマートの横を通って、この坂を登ります。
このファミリーマートの正式名称は、「ファミリーマート武路町店」 です。
この武路山を登っていきます。
武路山は、高根山ほどの急こう配ではないにしても、なかなかキツイ坂です。
振り返って見てみると、
1ブロック進んだだけで、目線が3階建ての建物やファミリーマートの看板くらいになっています。
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地図で見ると、ファミリーマートから東南東へ40mほど進んだだけですが、目線が3階建てになっています。
先ほどの2車線の道路を挟んで、高根山側の幕山の住宅が、手前の3階建ての建物よりもはるかに上に住宅が建ち並んでいるのが見えます。
武路山には南側の斜面に七ツ塚があります。
50m間隔に七か所の穴を掘り、桶狭間の合戦における戦死者が葬られた塚(墓)です。
いま登っている坂は武路山の西側の斜面です。
住宅街の住所を示す金属製のプレートにも、「緑区 武路町」 と書かれています。
世の中に多くの桶狭間に関する書物が出ていますが、今通ってきた高根山や武路山について詳しく書かれた書物はほとんど存在しません。
遺骨が出てくる高根山から幕山近辺、大量の遺骨が埋葬されていた武路山について、日本中の桶狭間に関する書物が、高根山や幕山、武路山に触れていないというのは一体どういう事なのでしょうか?
一方、名古屋市内の図書館を巡ると、この高根山や武路山を巡っての郷土歴史家の熱い桶狭間論が展開されているものをよく見かけます。
高根山と武路山の重要性は、地理感覚のある地元の人間にしかわからないのです。
ましてや複雑怪奇といえるこの緑区の山また山、谷また谷の地形を、短期間で把握することはほぼ不可能です。
だから有名なあの教授ですらおかしな事を言うし、自称桶狭間研究家で、なかなかすごい肩書の研究員の書物でもトンチンカンなことが書いてあったりします。
桶狭間の合戦を理解するのは非常に難しいのです。
まず地形を理解するだけでも難しいからです。
そういう意味でも、桶狭間の戦いというのは、非常に奥が深くておもしろい魅力があります。
名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その13 、終。
その14へつづく
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