名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その8 、のつづきです。
有松中学校南の牛乳屋さんを東に左折した急坂を登りつめると、
東への一本坂の頂上に到着です。
この一本坂を登りきった左側を見ると、高根山の頂上に有松神社の入口の階段があります。
鳥居も見えます。
この4段の階段を上がると、高根山の頂上の有松神社に到着です。
ここはこの地域の聖地です。
一通り参拝しましょう。
有松神社の社殿に向かって右側に、解説の看板が立てられています。
二つの解説の看板の右側には、高根山に関する解説が書かれています。
この看板を立てたのは、
有松桶狭間観光振興協議会
http://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/region/kankoplan/area/arimatu.htm
http://www.cbr.mlit.go.jp/kikaku/kankou/jissen-plan/05.html
です。
地元の郷土歴史家の方々が調査して、この文章を書いたものです。
ただ、ここに書いてあるものが100%真実である、という訳ではありません。
地元の郷土史家の方々が調査し、考えられる可能性が非常に高いもの、「こうであろう」という可能性が濃いもの、が記述されています。
たとえば、佐々政次と千秋季忠がこの高根山に攻め込んできたのを打ち破った、と書いてありますが、実はこれを直接的に裏付ける資料はありません。
信長公記に、以下のように記述されています。
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信長善照寺へ御出でを見申した、佐々隼人正、千秋四郎の二頭、人数三百ばかりにて義元へ向って足軽にて出陣候えば、どっと懸り来て、槍下にて千秋四郎、佐々隼人正はじめとして五十騎ばかり討死候。
これを見て、義元が鋒先には天魔鬼神も堪るべからず。
心地は良しと喜んで、ゆるゆるとして謡を歌わせ陣を据えられ候。
http://wiki.livedoor.jp/blackhoodsecretary/d/%bc%f3%b4%ac#3
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1次資料の信長公記では、記述されている文章はこれだけです。
高根山とか、松井宗信とか、記述されてはいません。
「佐々隼人正政次と、千秋四郎季忠が、足軽兵300名ぐらいを引き連れで今川義元の陣へ向かって出陣したところ、大勢の今川兵に逆襲されて、50名くらいの足軽兵とともに千秋も佐々も討ち死にした。」
と書いてあるだけです。
他にも説はあって、
鳴尾村史にもとづいた、「佐々政次と千秋季忠の戦死地は母袋後」説
http://kagiya.rakurakuhp.net/i_206099.htm
小和田哲男教授の考察による、「佐々政次と千秋季忠が攻め込んだのは鳴海城」説
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%B6%E7%8B%AD%E9%96%93%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84#.E5.A5.87.E8.A5.B2
などなど、これ以外にも他にもまだたくさん説はあって、議論百出です。
・・・と、いろいろな説を紹介しましたが、立て看板にケチをつけたいのでもなくて、ましてや有松桶狭間観光振興協議会の見解にケチをつけたいという訳でもありません。
批判したいのでもありません。
「いろいろな説があり、この立て看板の解説も、そのうちの節の一つである。」
という事が言いたいのです。
そして、この立て看板のように、一つの説を半ば、「断定的に言い切る」 という姿勢は、誤解を与える可能性があろうとも、どちらかというといい事なのではないかと思っています。
こういう言い切り断定の説が存在して、まず頭の中に一つの説にもとづいた桶狭間合戦の絵図が見えてきて、いろいろ調べていくうちに矛盾点が見つかって、更に調べて理解が深まっていく、というのはいい事だと思います。
この看板に書かれているように、この高根山の尾根続きに、幕山、巻山があり、ここが今川方の布陣地点であることは間違いありません。
高根山から鳴海城、丹下砦、中島砦、善照寺砦が見えるというのも本当です。
現在は、家屋やマンションがびっしりと立ち並び、その位置を特定するのは難しいですが、逆にその砦の近くに立っているマンションや、その方角に存在する大きな建物が目印になって、砦の位置を特定しやすいという事もあります。
前回紹介した、
この写真もそうですが、善照寺砦と鳴海砦と丹下砦の方角を写した写真です。
高根山から名古屋駅の高層ビルの方角に何があるのかは、地図を見れば正確に確認することもできます。
白い煙突と白い箱のような建造物は、天白橋のすぐ横に建っている名古屋市鳴海工場です。
大きな地図で見る
こういう土地勘は、地元に住んでいないとわかりません。
外部から学者が来ても、こういう地形の把握ができていないので、どの位置からどの砦がどの方角にあって、どの砦が見えてどの砦が見えないのか、どのルートだとどの砦から隠れるのか、どの道が昔から存在して、どの道が存在しないのか、などが全くわからないので、地元民ならではの視点でこのブログを進めていきたいと思います。
名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その9 、 終。
その10へつづく
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