2013年4月30日火曜日

名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その4


名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その3、のつづきです。

名鉄有松駅の改札口を出てすぐ左にある地図、




に書きこんである、「戦のみち」をたどります。

この地図も、上が南をさしている地図です。駅を出て、南方へ向かいます。



    ↑
この地図を見るとわかりますが、「戦のみち」をあらわす赤い線が、有松駅から出ていませんから、この赤い線までたどり着くように、写真を撮影してきました。

それではまず、名鉄有松駅を出ます。



出たところは、高架の歩道になっています。

この歩道をすこし歩いてくと、階段があり、階段を降りたところに、前方に進む通路と、左側に降りる階段が見えます。



      ↑
この左下の階段を降ります。




      ↑
この写真の左下の階段を降ります。

この階段を降りて左折すると南側で、桶狭間側です。




階段を降りて地上に降り立って、左を見ると、こんな感じです。

ここをすこし直進します。

上の写真を見ると、信号機が見えますよね。

この信号機のある交差点まで歩いてください。




この信号機のある交差点を左折します。

この交差点を左折すると、かつて江戸時代に栄えた、東海道五十三次の池鯉鮒の宿と鳴海の宿の間で栄えた、本陣のない宿場町、有松の町並みが立ち並ぶ東海道です。

この東海道を進みます。


名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その4、終。


その5につづく。




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2013年4月29日月曜日

名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その3

名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その2、のつづきです。

名鉄有松駅のホームに着いたらすること。

①改札を出る前に、改札口の左側にリアル地図があるので、これを携帯電話やスマホであらかじめ撮影しておきましょう。



②改札口を出ると、すぐ正面に大きな看板があり、その説明を一通り読んでみましょう。







③改札口を出て左側に地図がありますので、ここで、「戦のみち」で訪れる場所を確認しましょう。



上の写真は、下の写真の真ん中の上部を撮影したものです。


下の写真は、上の写真の左上の部分を撮影したものです。




「戦のみち」を歩くと、上の写真の戦跡をたどることができます。

それではいよいよ有松駅から出発します。



名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その3、終。


その4へつづく




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2013年4月28日日曜日

名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その2

名鉄有松駅から桶狭間古戦場を歩いてみよう・・その1、のつづきです。

名鉄有松駅に到着したら、改札口を出て左すぐのところに大きな地図があります。

この地図をまず熟読しましょう。




この地図に、有松の宿場町の地図が載っています。



   ↑
この画像は、地図が見やすいように、撮影時の3264×2448サイズのままでアップロードしてありますので、詳細をご覧になりたいかたはこの画像をクリックしてください。

桶狭間古戦場までの徒歩ルートも一応は書いてはありますが、上の方にわかりにくくかいてあるだけです。



   ↑
この画像も、地図が見やすいように、撮影時の3264×2448サイズのままでアップロードしてありますので、詳細をご覧になりたいかたはこの画像をクリックしてください。

今回はこの画像の上部に記述されている、「戦のみち」をたどってみました。

しかし・・この地図だと、初めて来た人にはわかりにくいですよね。

リアルな地図ではないんですよね。

リアルな地図は、改札口を通る前のところにあるんですよね。

普通こういう地図は改札口の外に掲示しておくものだろう・・・とは思うんですが、




改札口を通過する前に、携帯電話やスマホで撮影しておきましょう。

改札口を通過する前の左側にあります。

南に向かって掲示されている地図なので、上が南を指している地図です。




名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その2、終。


その3へつづく



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2013年4月27日土曜日

名鉄有松駅から桶狭間古戦場へ歩いてみよう・・その1

桶狭間古戦場公園へ向かうには、名鉄有松駅から行くのをお勧めします。

そこで、名鉄有松駅から桶狭間古戦場公園まであるいて写真を撮ってきましたので、それを公開したいと思います。

まず、名鉄の有松駅ですが、名古屋駅から名鉄有松駅までの路線図は以下のとおりです。

Googleでの路線図


大きな地図で見る


Yahooでの路線図

ヤフーの路線図の検索結果は、JR名古屋駅から名鉄のホームに移動して、そこで午前9時に乗り換えた場合の検索結果を表しています。

準急(準急行)に乗ると、5駅で、18分で名古屋から有松に行ける事を表しています。

普行に乗ると、11駅です。


そして有松駅に到着




有松駅の改札口を出たところに、桶狭間古戦場に関する案内板と地図があります。

まずこの看板と地図をじっくりと見て、ここからの行程を確認しましょう。



改札口の正面にこの看板があります。

・戦のみち
・絞りのみち
・町並みのみち

と書いてありますね。








有松は江戸時代に東海道を中心に栄えた町で、伝統工芸の有松絞りでも有名な町です。

浮世絵にも何枚か描かれている美しい町並みがあります。

江戸時代から現存する宿場や店が残されています。

改札を出て左方向に進みますが、その左側に、地図があります。

この地図を熟読しましょう。





その2へつづく・・




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2013年4月26日金曜日

桶狭間の戦いの主戦場はどこか?

桶狭間の戦いにおいて、今川義元がどこで討たれ、首をとられたのか?

それは、名古屋市緑区の桶狭間古戦場公園である可能性が非常に高いことを前回ご紹介いたしました。
 ↓

桶狭間の合戦とは?

http://okehazama.blogspot.jp/2013/04/blog-post_25.html


そこで、

今回は、桶狭間の合戦の主戦場はどこだったのか?

について、まとめてみたいと思います。

それは、塚のあったところです。

桶狭間に出かけたら、是非行って欲しい場所として、


・桶狭間古戦場公園(名古屋市緑区)
・長福寺
・七ツ塚
・桶狭間古戦場伝承地(豊明市)
・戦人塚


の5か所には最低限でも行ってほしいなと思います。

それぞれの場所は、

桶狭間古戦場公園

長福寺

七ツ塚

桶狭間古戦場伝説地

戦人塚


昭和13年4月、豊明村は文部省から桶狭間古戦場伝説地として、「今川本陣があったのはココ」と間違えて指定してしまった場所です。

なぜ間違えてしまったのかについては深い理由があるのですが、この件につきましてはまた後日まとめてみたいと思います。

桶狭間の合戦の主戦場ですが、実はこれもはっきりとした文献や証拠が残っているわけでもなく、あいかわらず残っている資料も二次資料ばかりで、確固たる証拠になりえていません。

しかし、塚のある場所は、そこがかつて戦場であった確固たる証拠です。

塚というのは、「墓」と同じ意味で、上記の戦人塚のURLをクリックすると地図がありますので、その場所がわかると思います。

七ツ塚は以下です。

大きな地図で見る


民家と民家の隙間の通路を通らないと七ツ塚に到達しません。

小さいですが看板が入口のところにありますので、見つけてもらえればと思います。

この二つの塚の場所が、ずいぶんと離れた場所にあることがおわかりいただけると思います。


織田信長の本隊と、今川義元の本隊が激突したのが正午すぎといわれています。

戦が終わったのは夕刻で、その時間は4時間から5時間くらいでしょうか。

七ツ塚は正午過ぎに戦が行われた場所、戦人塚は、夕刻あたりまで合戦が行われた場所、ということが推定されています。

だから、桶狭間の合戦の主戦場は、この七ツ塚と戦人塚の間、という事だけは、少なくとも定義することができるでしょう。

この2つの塚に、桶狭間の戦いで討ち死にした戦死者が埋葬されました。

とくに七ツ塚は、約50m感覚で7箇所に埋葬されたのが由来で、それで七ツ塚という名称なので、山の斜面にあるこの七ツ塚の規模からも、いかに戦死者が多かったのかがおわかりいただけると思います。

その七ツの塚のうち、一つだけ残したのが、現存する七ツ塚です。

戦人塚も山の斜面にあります。

当時水田に利用できなかった山の斜面に戦死者を埋葬する塚を作ったのだと想像されます。

この二つの塚の間も、その周辺も、すべてびっしりと家が立ち並ぶ住宅地になっています。

だからここがかつて主戦場であった、ということを想像するのは難しいのかもしれません。

しかしこの二つの塚を思い起こせば、確かにここが桶狭間の主戦場だったのだということが実感できます。

現地に行ったら、この二つの塚の位置を把握しつつ、かつて桶狭間合戦の主戦場だったこの地にさまざまな想像を巡らせてみてはいかがでしょうか。

現地に行けない方は、最近ボチボチ桶狭間もストリートビューが入っていますので、そんなことを考えながら画面をご覧いただけたらなと思います。



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2013年4月25日木曜日

桶狭間の合戦とは?

桶狭間の合戦、桶狭間の戦いとは、なんでしょうか?

5W1Hで定義してみましょう。


①Who? (誰が)

織田信長と今川義元が、















②What? (何を?)

槍と刀と弓による合戦を、











 ③When? (いつ?)

450年ほど昔 1560年6月12日の昼過ぎから夕方に、


④Where? (どこで?)

愛知県名古屋市緑区から愛知県豊明市栄町を中心にした一帯を主戦場として、



大きな地図で見る


⑤Why? (どうして?)

今川義元が尾張を侵略するため、












⑥How? (どのように?)

血で血を洗う、壮絶な白兵戦をくりひろげ



たところ、今川義元が討ち取られ、首を取られるという、「壮絶ないくさ」 でした。

そして、いまだに謎が多いのが、この桶狭間の戦いの特徴です。

桶狭間の戦いにおいて、今もわかっていないのは、

・今川義元の本陣
・織田信長の進軍ルート
・今川義元が討ち取られた正確な場所

が謎のままです。

伝承や二次資料(直接的な証拠とはなりえない資料)は数多くありますが、 直接的な証拠となる一次資料が存在しておらず、いまだにこの3点が不明のままです。

そのため、いまだに桶狭間の合戦には論争が繰り広げられています。


ただし、可能性が高いと思われる、今川義元が討ち取られた可能性が濃厚と思われる場所はあります。

それは、名古屋市緑区桶狭間3丁目にある、桶狭間古戦場公園の付近と思われる場所です。



大きな地図で見る

↑この地図の中央部の縦長の土地全体が桶狭間古戦場公園です。

http://okehazama.net/modules/sisekimeguri/04_okehazamakosenjyoukouen.html

 ↑
この桶狭間古戦場保存会が作成しておられるサイトにもあるように、駿公墓碣の石碑が立っています。

この石碑が、昭和初期になるまで、水田のまんなかに土盛がされたまま埋められていました。

近くにねずの木が植えてあったため、ねず塚と言われていて、その昭和初期のころの白黒写真も愛知県立図書館で見たことがある記憶があるのですが、コピーや写真を取ってきてないので、 見つけ次第載せたいと思います。

このねず塚の土盛り(土饅頭とでもいうのでしょうか)から出てきた駿公墓碣こそが、この場所あるいはこの付近で今川義元が討たれたという何よりの証拠であると言わざるを得ません。

「塚」 、というのは本来は墓を表す字なのだそうです。

駿公と彫ってあるのは、もちろん敬意を表してのことですが、日本人の慰霊碑建立の基本は、

「たたりを恐れる」

という基本的な信仰に基づくものですから、当然、敬称である「公」がつくわけです。

しかし尾張国で敵の大将の慰霊碑を、しかも「駿公」と刻まれた慰霊碑を建立するわけにもゆかず、桶狭間村の村人がこの付近一帯の慰霊の塚と称して土をかぶせて隠し、ねずの木を植え、このねずの木に触れたものは熱病にかかると言い伝えを残し、このねず塚が守られてきたということであることは容易に想像がつくでしょう。

ゆえに、初めて桶狭間を訪れようとする方は、まずまっすぐに名古屋市緑区にあるこの古戦場公園に向かわれるのが良いと思います。


まあ、だからといって今川義元の本陣がここにあったということになるのかというと、まだそれははっきりと断言するのは難しいと言わざるを得ません。

そのあたりについても、今後ブログにしてきたいと思います。




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2013年4月24日水曜日

日本三大奇襲、桶狭間の戦い

日本三大奇襲をご存知でしょうか?

(参考 : 日本三大一覧 (Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%89%E5%A4%A7%E4%B8%80%E8%A6%A7 )

鎌倉時代から戦国時代までの武士が活躍した時代、その合戦の中で、日本三大奇襲と言われているのは、以下の合戦なのだそうです。


・河越城の戦い

・厳島の戦い

・桶狭間の戦い


この中で、もっとも有名な戦いである桶狭間の戦い・・




桶狭間の合戦、桶狭間の戦いとは?


桶狭間の戦い (Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%B6%E7%8B%AD%E9%96%93%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

桶狭間古戦場保存会
http://youtu.be/iKl0HGDiQCQ


ネットで検索するといろいろと出てきます。

情報もいっぱいでおもしろいんですが、地元民がこれらを一通り読み終わって、一周したところで、

「もうちょっとこういうところも書きこむといいんだけどな。」

「もうちょっとこういう写真も載せたら、桶狭間の魅力も伝わるんじゃないかな。」

と生意気にも一個人のくせにそのように感じたのが、このブログを始めようと思ったきっかけです。


桶狭間の戦いについては、ものすごい数の書籍も発刊されています。

でも、地元民である名古屋市民からみると、

「なんじゃこりゃ?」

と言わざるを得ない説が書かれた本が数多く目につきます。

中には、

「よくこんな内容で出版することができたものだ。」

とあきれてしまうような内容の本もあります。

文学的な表現で逃げていたり、現地に来ないで本を読んだだけで推理しただけのトンデモ妄想本もあったりします。

しかもそういうのを結構有名な人が書いたりしていて片腹痛いところがあります。

名古屋人として、これらの本を非常に苦々しい思いで眺めていました。

明らかに名古屋に来ていないのに桶狭間の合戦についての本を書いている作家や学者がいたりするのを目にするのは悲しいものです。

しかも、NHKにしょっちゅう出演している教授で、名古屋までわざわざ調査しにきている超有名な学者の本にすら、

「何じゃそりゃ?」

と首をかしげざるをえない箇所があったりしているのを目にしたりします。

「地理感覚や距離感が全くないから、正確な情景が思い浮かばないんだなー。」

と思いながら、苦々しい思いです。

地元民だからこそはっきりとわかる地理感覚。

山の位置、谷の位置、砦や城との正確な距離、川の位置、海の位置、村と村の距離、周辺地域との距離と関係性など、地元民の感覚と、地元じゃない人の感覚は、やはり全然違うなと思います。


しかしまあ、これらの作家さんや学者さんにも、同情する余地はものすごく沢山あります。


①正確な今川義元の本陣の場所は、いまだに正確にわかっていない。

②同じような標高50mクラスの山が数多くあり、同じような深い谷も数多くある。

③同じような山と谷が多いために、数多くの推理が成立してしまう。

④正確に記述された資料が極めて少ない。

⑤非常に劇的で有名な合戦のため江戸時代にベストセラーになったフィクション本(小瀬の信長
記)が広まってしまった不幸があり、江戸時代からおかしな通説がまかり通り、正確な史実や伝承が地元ですら薄められてしまった。


などなど、いまだに議論百出、こういう説を提示すれば、こっちの箇所が辻褄があわない、あっちの説を提示すればこっちの箇所が辻褄があわなくなる、・・・という事を繰り返してきたのが桶狭間合戦の議論です。

そしてそれがまた、桶狭間合戦の最大の魅力でもあります。

そんな桶狭間の戦いについて、いかにも地元民っぽく写真を多めにしたブログを作ったら、そんなに簡単に名古屋まで来ることができない遠方の歴史ファンの、桶狭間の戦いに興味がある方に楽しんでいただけるんじゃないかなと思いました。

なるべく写真多めのブログにしたいと思います。

動画もアップロードするといいんじゃないかなと考えています。

まだYouTubeに動画をアップロードしたことはないのですが、このブログをきっかけに挑戦してみたいと思います。

だからGoogle系のブログを使った方がいいのかなと思ってここに開設してみた次第です。(あんまり変わりはないか・・?(^^;) )

桶狭間の合戦にあまり興味のない人にも、興味をもってもらえたら嬉しいな、というブログにしていきたいと思います。

桶狭間の戦いをあまり知らないという方がおられましたら、とりあえず、

”織田信長の日本三大奇襲合戦の一つだ!”

だけでも覚えてもらえるとうれしいです(笑)




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2013年4月23日火曜日

桶狭間の合戦を名古屋市民が紹介するブログを始めようと思います

こんにちは、とある名古屋市民です。

戦国時代好きの名古屋市民です。

名古屋市内には、桶狭間古戦場跡があります。

この桶狭間古戦場跡を、地元の名古屋市民が紹介していこうとするブログを始めたいと思います。

ただいかんせんこの Google Blogger の使い方がまだよくわからない・・(汗)

地元民だからこそ紹介できるものがたくさんあると思いますが、どのくらい紹介できるかわかりませんが、よろしくお願いいたします。




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