桶狭間の合戦、桶狭間の戦いとは、なんでしょうか?
5W1Hで定義してみましょう。
①Who? (誰が)
織田信長と今川義元が、
②What? (何を?)
槍と刀と弓による合戦を、
③When? (いつ?)
450年ほど昔 1560年6月12日の昼過ぎから夕方に、
④Where? (どこで?)
愛知県名古屋市緑区から愛知県豊明市栄町を中心にした一帯を主戦場として、
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⑤Why? (どうして?)
今川義元が尾張を侵略するため、
⑥How? (どのように?)
血で血を洗う、壮絶な白兵戦をくりひろげ
たところ、今川義元が討ち取られ、首を取られるという、「壮絶ないくさ」 でした。
そして、いまだに謎が多いのが、この桶狭間の戦いの特徴です。
桶狭間の戦いにおいて、今もわかっていないのは、
・今川義元の本陣
・織田信長の進軍ルート
・今川義元が討ち取られた正確な場所
が謎のままです。
伝承や二次資料(直接的な証拠とはなりえない資料)は数多くありますが、 直接的な証拠となる一次資料が存在しておらず、いまだにこの3点が不明のままです。
そのため、いまだに桶狭間の合戦には論争が繰り広げられています。
ただし、可能性が高いと思われる、今川義元が討ち取られた可能性が濃厚と思われる場所はあります。
それは、名古屋市緑区桶狭間3丁目にある、桶狭間古戦場公園の付近と思われる場所です。
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↑この地図の中央部の縦長の土地全体が桶狭間古戦場公園です。
http://okehazama.net/modules/sisekimeguri/04_okehazamakosenjyoukouen.html
↑
この桶狭間古戦場保存会が作成しておられるサイトにもあるように、駿公墓碣の石碑が立っています。
この石碑が、昭和初期になるまで、水田のまんなかに土盛がされたまま埋められていました。
近くにねずの木が植えてあったため、ねず塚と言われていて、その昭和初期のころの白黒写真も愛知県立図書館で見たことがある記憶があるのですが、コピーや写真を取ってきてないので、 見つけ次第載せたいと思います。
このねず塚の土盛り(土饅頭とでもいうのでしょうか)から出てきた駿公墓碣こそが、この場所あるいはこの付近で今川義元が討たれたという何よりの証拠であると言わざるを得ません。
「塚」 、というのは本来は墓を表す字なのだそうです。
駿公と彫ってあるのは、もちろん敬意を表してのことですが、日本人の慰霊碑建立の基本は、
「たたりを恐れる」
という基本的な信仰に基づくものですから、当然、敬称である「公」がつくわけです。
しかし尾張国で敵の大将の慰霊碑を、しかも「駿公」と刻まれた慰霊碑を建立するわけにもゆかず、桶狭間村の村人がこの付近一帯の慰霊の塚と称して土をかぶせて隠し、ねずの木を植え、このねずの木に触れたものは熱病にかかると言い伝えを残し、このねず塚が守られてきたということであることは容易に想像がつくでしょう。
ゆえに、初めて桶狭間を訪れようとする方は、まずまっすぐに名古屋市緑区にあるこの古戦場公園に向かわれるのが良いと思います。
まあ、だからといって今川義元の本陣がここにあったということになるのかというと、まだそれははっきりと断言するのは難しいと言わざるを得ません。
そのあたりについても、今後ブログにしてきたいと思います。
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